旧埴生郡 成田市 上福田と大竹台の祇園
3. 上福田と大竹台クルワの祇園の歴史
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(1)文書資料から
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八坂神社と祇園についての初出資料は管見の限り享保19年(1734)「上福田村指出帳」です。ここでは「牛頭天王」を次のように説明しています。
また、天保12年(1841)の「上福田村慈眼山福寿院書上」には、次のようにあります。此社地御除宮本ハ当村、御本地ハ大竹村観行院ニ所持仕候、祭礼之義六月五日二御浜下と申、両村宿中ニ借屋ヲ立御出被成、同十二日ニ御本社江御帰リ被成候、祭礼之義ハ当村ト大竹村台方ニ而年番ニ仕候、其節ハ御他領松崎村神主右近参祭礼仕、常ニハ福寿院ニ而取行申候
社地の宮本は当村(上福田村)だが、牛頭天王の本地仏は大竹村観行院が所持している。祭礼は、6月5日に「御浜下」といって両村のヤドに借(仮)屋を立ててそこに御出になり、12日に神社に戻られる。上福田村と大竹村の台方で祭礼の年番を勤め、松崎村の神主が来て神事を執り行う。通常の祭祀は福寿院で行っている。
当社之儀者別当拙寺ニ候得共、六月祇園会之儀者隣寺大竹村観行院与隔年ニ棒幣祭祠仕来候、尤毎年松崎村二の宮神職相雇申候
当社(牛頭天王宮)の別当は拙寺(福寿院)だが、6月の祇園会は大竹村観行院と隔年で奉幣祭祀を行っている。もっとも毎年松崎村の二宮(現在の二宮神社)の神職を雇っている。
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この2点の資料の要点を、現在の祭礼と比較しつつまとめると、次のようになります。
・牛頭天王の本地仏(懸仏)は、享保19年(1734)にはすでに大竹の観行院が所持していた。
・ヤドに仮屋を設け、ご神霊を5日に出して「御浜下」を行い、12日に神社に戻した。
・上福田村と大竹村の台方が、交代で祭礼の年番を勤めてきた。祭祀も上福田村の福寿院と大竹村の観行院が隔年で行い、ヤドも両村にあった。
・神事は松崎村の二宮大明神(現二宮神社)の神職が執り行った。
一方、大正2年(1913)『千葉県印旛郡誌』には次のように記されます。八阪神社は六月五日より十二日までを祭日とす。又四月一日より十二日までを鳥精進とす。昔御浜下りとて九十九里浜まで神輿の渡御ありしと伝ふ。
八坂神社は6月5日から12日までが祭日で、4月(「6月」の誤記か)1日から12日までを鳥精進とする。昔は「御浜下り」といって九十九里浜まで神輿の渡御を行ったと伝えられる。
大正3年(1914)「八生村誌」もほぼ同内容で、これらと江戸時代の文書を比べると、記載者の着眼点の相違がよくわかります。江戸時代の2点の文書は為政者に提出する調書であったため、二村あるいは二寺院の関与を明記したものでしょう。しかし大正期の記録では鳥精進と九十九里浜への神輿渡御の2点が、他地域にない特殊な内容として記されたと考えられます。
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(2)鳥精進
- 鳥精進とは鶏卵と鶏肉の禁忌で、現在まで続く禁忌です。このような禁忌が特別の理由なく突然始められることはなく、おそらく古くからの風習でしょう。上福田は土師神社を祀り、旧埴生郡のなかでも古代の土師氏と関係が深い地域だったと考えられています。また、土師氏が鶏と関係が深いことはすでに指摘されており、鳥精進は、牛頭天王の祭礼以前からの風習であった可能性が高いと考えられます。
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(3)九十九里浜へのお浜下り
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現在の氏子の方々も、かつて九十九里浜への神輿渡御があったと聞いてきたといいます。上福田の若い衆で行った先で神輿を奪われ、大竹台クルワの若い衆に頼んで取返しに行き、以来一緒に祀るようになったという伝承も語られています。
文書資料を検討する限り、少なくとも近世以降、九十九里浜への神輿渡御が実際に行われたとは考えにくいのですが、地元の方々が非常に大切にしている伝承であることは間違いありません。おそらく重要な意味を秘めた伝承なのでしょう。
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(4)これからの上福田・大竹台の祇園
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昭和30~40年代は地域に若い人や子供が多く、青年団で映画会を催したり、他地域からの参詣もあって賑やかに行われ、大人は準備から片づけまで村総出で行い、飲食を楽しみ、子どもたちは露天商の屋台でおもちゃを買ってもらうなど、1年で最も大きな祭りであり、地域のまとまりを確認する機会でもあったといいます。
江戸時代の文書に見られる祭礼と現在の様子を比較すると、祭礼期間が短縮され、ご神体をヤドにお祀りする時間が7日間からひと晩へと変わり、さらに近年は簡略化が進んでいます。生活の変化と余暇の多様性により、祭礼への関心は低下しているようです。
しかし、おそらく中世福田郷の体制内で始まった宿場の祭礼の、当初からの構造や内容、様々な古い信仰の要素が保持された、極めて貴重で稀有な祭礼です。
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御仮屋を立てる
御仮屋に納められた神輿