旧埴生郡 成田市 上福田と大竹台の祇園
2.日程と内容
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(1)日程
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本来の祭日は7月11・12日ですが、近年は11・12日以前の土日に行っています。
当地の祇園は鶏卵と鶏肉の禁忌が特徴です。7月1日から12日まで「鳥精進といって鳥肉のみか卵まで一切食べられず、触れたときでも手を洗わねばならなかった」といいます。今も多くの家で宵宮と祇園当日の2日間、丁寧な家では7月1日から、鶏肉と鶏卵の禁忌が守られているそうです。7月1日は、かつて(平成の終わり頃まで)街道の村境2か所に注連縄を張ったシメハリの日でもあり、祭礼の開始日と考えられていました。 宵宮(令和6年7月6日(土))
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朝8時に役員が八坂神社に集まり準備を行いました。境内の草を刈り、幟を立て、御仮屋のテントを建て、湯立ての大釜を設置し、大釜を忌竹で囲って注連縄を張り、社殿の注連縄の紙垂を新しくし、社殿内の神輿に榊と紙垂を飾り、そして坂田ヶ池の畔の片葉の梅の元(人柱の母子が埋められた伝説の地)にお浜下りの神事で幣束を立てる盛砂を作る、などの作業を行いました。
幟は、かつては大竹、上福田それぞれ10メートルを超える大きなものを2本ずつ立て、近年は1本ずつにしながらも丸太の支柱を立ててあげていましたが、平成30年から小さな幟を合同で境内に1本あげる形に変更しました。御仮屋も、部材を保管場所の観音堂から運んで境内に組立て、神輿を社殿から御仮屋に移していましたが、平成30年からはイベントテントを組立てて、神輿は移動せず社殿に納めたまま祭礼を行う形になりました。そのため、以前は準備と片づけに氏子各家から1人ずつ出るものとされ、特に片づけは祇園の翌日の月曜日に、早朝から幟を下ろしたり御仮屋を解体する作業がありましたが、平成30年からは準備と片づけを役員のみ約10名で行い、片付けも日曜日のうちにすべて終わるようになりました。
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幟を上げる
夕食をとる役員 -
準備が終わるといったん解散し、夕方16時に再度役員が八坂神社に集まりました。早めの夕食をとり宮司を迎えると、次のように行事が進められました。
- 神主と役員で天王山観行院(大竹の天台宗寺院)へご神体を預りに行く。八坂神社では、湯立ての湯を鉄釜で沸かし始め、火の番が神社に残った。
- 18時頃に観行院住職に迎えられ、宮司が祝詞をあげ、住職からヤドにご神体が渡される。
- ご神体の入った漆塗りの木箱を、役員が頭の上に掲げたまま移動し、八坂神社まで戻ると社殿の神輿の前に据える。
- 社殿前で神事を行う。
- 坂田ヶ池に移動し、事前に用意した盛砂にヒモロギの榊を立て、お浜下りの神事を行う。
- 神社に戻り、再度ご神体を神輿の前に据える。地域の方々が三々五々重箱とオヒネリを持ってお参りに来る。宮司はひとりひとりお祓いをし、玉串を渡す。
- 20時近くに、頃合を見て湯立神事を行う。「湯玉を浴びれば風邪ひかない」といわれている。
- ご神体をヤドに運ぶ。ヤドに着くとお茶をあげ、役員、宮司が1本ずつ線香をあげる。宮司が祝詞をあげる。
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観行院で宮司による祝詞奏上
観行院住職から当番区の代表(ヤド)にご神体が渡される
ご神体を社殿の神輿の前に納める
坂田ヶ池でのお浜下り神事
湯立神事
ヤドでご神体に線香を上げる 本宮(令和6年7月7日(日))
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- 役員は朝6時に八坂神社に集合し、ヤドにご神体を迎えに行く。お茶を替え、線香をあげ、宮司が祝詞をあげる。
- 八坂神社に移動する。ご神体を神輿の前に据え、神事を行う。
- 氏子が重箱にお赤飯を入れオヒネリを持って、朝参りに来る。宮司と役員で迎え、お神酒を振舞う。氏子の重箱から赤飯と役員の重箱の赤飯を交換する。神社のお札と前夜の湯立で使った熊笹を1本渡す。
- 役員は夕方まで神社で待機し、ご神体をお守りする。
- 16時ころから祭典を行う。
- 観行院にご神体をお返しする。宮司が祝詞をあげ、観行院住職が読経を行う。
- 幟やテントなどを片づけ、解散する。
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本宮の神事
朝参り
ご神体の返却
◎お浜下り-
かつては神様が動くのは暗くなってからといわれ、観行院にご神体をお迎えに行くのもお返しに行くのも、そしてお浜下りも暗闇の中で行ったものでしたが、近年は日の光があるうちに行うようになりました。
お浜下りは、坂田ヶ池の堰で行います。龍角寺への街道は坂田ヶ池の堰の上を通っており、人柱伝説にまつわる「片葉の梅」の傍らに盛砂を作り、お浜下りの祭事を行ってきました。年配者の記憶の限り池に入ったことはなく、現在の形だったといいます。また砂山は誰も踏まないきれいな砂で作らなければいけないといわれ、崖地などから山砂を採取しています。
- ◎湯立
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境内に大釜を据えて湯を沸かし、宮司が大釜の前で祝詞をあげ、クマザサの束を両手に、大釜の湯に浸して参列の氏子に振りかけます。この湯を浴びると無病息災といわれています。近隣の祇園祭礼には見られない要素です。
湯立に使用するクマザサは地区内のきまった家の裏山から採取され、奉納されています。
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湯立の祭場
湯立で使用したクマザサ
◎氏子の参詣-
氏子が宵宮と本宮に、それぞれ神社をお詣りする習慣があり、その都度、半紙に包んだおひねりと重箱を持参します。かつて宵宮では重箱に「バラッパ饅頭」を入れる人が多く、また白いご飯にズイキ(芋茎)をのせていく家もありました。今は赤飯の家が多くなり、おひねりだけの家もあります。役員はあらかじめ白いご飯を少し入れた重箱を用意しておき、そこにお詣りの人の重箱の中のものを少しいただくと、代わりに役員の重箱からお返しをします。その繰り返しで、役員の重箱の量は常に変わりません。また本宮の朝は、役員は重箱に少しの赤飯を用意し、お詣りの人も赤飯の重箱を持ってくるので、前夜同様に交換をします。これには神様とともに、地区の方々皆でひとつのものを分け合っていただく意味があるといいます。かつては木のお櫃が用意され、重箱に入れて来る赤飯の量も多く、御仮屋に集った人たちの食事になったといわれています。今は重箱を使う機会が祇園の年1回になったといいますが、大切に受け継がれている風習のひとつです。
なお「バラッパ饅頭」とは、サルトリイバラの葉を敷いて蒸かした餡入りの味噌饅頭のことで、かつてはどの家でも宵宮の日にたくさん作ったといいます。
また朝参りでは、八坂神社のお札と湯立で使ったクマザサの葉を1本いただいて帰り、神棚にあげて無病息災を祈る習わしです。
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かつてたくさん作られたバラッパ饅頭
重箱の赤飯を交換する
お札とクマザサを神棚にあげる
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(2)組織とヤド
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祇園は上福田と大竹台クルワの合同の祭礼で、上福田と大竹が1年交代で当番をつとめてきました。近年では令和5年が上福田、6年が大竹でした。費用は折半です。
宵宮の夜にご神体が泊まる家をヤドといい、大竹の伝兵衛(伊藤さん)宅、徳左衛門(藤崎さん)宅が長く交代で務めてきました。しかし、コロナ禍で令和2年から祇園が中止になり、5年に再開する際に、伝兵衛、徳左衛門両家がヤド辞退を申し出、その年の当番区から、上福田は区長が、大竹は八坂神社の氏子から順番にヤドを勤めることになりました。そのため大竹では今後、当番の年は5名、当番でない年は4名が役員となります。
上福田は約40軒のすべての家が祭礼に参加しており、区長や組長が中心になっていますが、大竹では台クルワの30軒のうち八坂神社の氏子は現在18軒となっています。
上福田では区長、区長代理が中心になり、上・中・下のそれぞれの組長を加えた5名が役員です。区長代理は翌年、区長になります。また上福田では、祇園のために翌々年の区長も第二区長代理としており、正式な役員ではありませんが、2年後に区長になったときに戸惑わないよう一緒に参加しています。そのため、上福田は6名の参加となっています。
大竹の台クルワも上・中・下(カミ・ナカ・シモ)の3組に分かれていましたが、下は移転して今はなく、上から2名、中から2名ずつ役員となります。6年はヤドを加えて計5名の参加でした。ヤドの縁側には小さな盛砂を3つ作り、神様は盛砂の上を通って縁側から出入りし、ヤドの当主が御神体の箱を受け取りました。祭壇の机には、神様の布団としてススキを机の幅に合わせて切りそろえて敷き、その上にご神体の箱を置くとお茶とバラッパ饅頭を供えました。線香をあげて神事を行い、神事が終わると、神主とご神体を運んできた役員の方たちにお茶と菓子や果物を振舞いました。朝はお茶と赤飯を供えて送り出しました。
令和5年は上福田区長の家がヤドになりましたが、6年は大竹のヤドの自宅ではなく、福寿院境内の上福田集会所がヤドとされました。 -
掃き出し窓でご神体を受け渡す
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(3)ご神体と神輿
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天王様のご神体は大竹の天王山観行院の懸仏です。観行院は天台宗龍角寺末。本尊は薬師三尊像で、薬王寺ともいわれました。『千葉県印旛郡誌』は天文25年(1556)4月開基としています。
大竹の台クルワの多くが時宗圓光院の檀家で、観行院は現在無住となっているため、栄町の安栄山大乗寺が管理し、懸仏も盗難防止の観点から祇園祭礼の時だけ観行院に運ばれています。
懸仏は黒塗りの箱に入り、地域では見ると目がつぶれると伝えられてきました。また、ご神体の箱を運ぶときは、必ず頭の上に掲げるように持ちます。かつては頭に付けてはいけないといわれていましたが、かなりの重量があり、今は頭に載せることは許されるようになっています。この懸仏について『成田市史中世・近世編』は、主尊を金剛界大日如来、脇侍を降三世明王と不動明王坐像とします。しかし、主尊の日輪を背に智拳印を結び七頭の獅子が支える蓮華座に坐る像容は、『千葉県印旛郡誌』が記すとおり一字金輪仏頂尊(大日金輪)であり、大日如来の中でも、特に諸尊を統合した最高唯一の尊格とされます。彫像は極めて稀といわれる大日金輪の懸仏が観行院に伝わる由縁に、本寺龍角寺との関係が想定されます。京の祇園社(八坂神社)と別当観慶寺(感神院)、比叡山延暦寺の関係と同様、天王山観行院(大竹)、福寿院(上福田)、龍角寺の天台本末の繋がりのなかで、当牛頭天王社の祭祀が開始されたのかもしれません。
しかし、なぜ牛頭天王の御神体が大日金輪なのでしょうか。牛頭天王の本地仏は本来薬師如来で、観行院の本尊も薬師三尊像であるため、本地垂迹の観点から大日金輪を説明することはできません。
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ご神体の懸仏 -
社殿内に納められた神輿は、墨書きから文化13年(1816)、江戸本町(現在の日本橋)の神輿師、萬屋新助により作成されたものです。旧埴生郡域の祇園の神輿としては珍しい漆塗りの飾り神輿であり、この天王様は女性の神様で、荒く揉んではいけないと伝えられてきたそうです。
もっとも、この神輿が実際に担がれた様子を知る人はいません。年配者が知る限り、境内の御仮屋に動かすだけで、村内を担いだこともないといいます。
また、八坂神社の社殿の脇障子に、大山信仰のオタチと考えられる大きな木太刀が立てかけられています。祇園の祭礼にオタチが担がれた時代があったのかもしれません。子どもが熱病にかかると、天王様の社殿から木太刀を借りて祈願をかける風習があったそうです。
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文化16年に江戸で製作された飾り神輿
台座上の墨書き
脇障子に立てかけられた木太刀 -
なお、昭和の終わりの地域に子どもが多くいた頃、子どもたちが半被を着て樽神輿を引いて地区内を回った時代があったといいます。歴史の一コマとして書き留めておきます。
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(4)丑祭と鎮守祭礼
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八坂神社には、祇園のほか、もうひとつ興味深い行事が行われてきました。正月の初めての丑の日に行う丑祭です。役員が薄い伸し餅を小さな三角に切り、5つ6つ袋に入れて地区の人に配るもので、これを焼いて食べると風邪をひかないといわれました。かつては八坂神社の境内で餅撒きのように撒いたそうです。やはり上福田と大竹の台クルワで行う行事でしたが、餅を搗くのが大変になり、やめて随分経つといいます。
上福田のオボスナ様、土師神社の祭礼は4月3日のオコトです。境内に天神、愛宕、貴宮(きのみや)、稲荷、子安、オコト様の小祠がありますが、天神様、愛宕様、貴宮様は比較的近年の合祀です。オコト様は農作業の神様といわれ、社殿の奥に藁屋根のお宮を毎年作り替えています。また、以前は氏子がみな集まり三匹獅子舞の奉納もありましたが、現在は獅子頭を集会所に飾り、神社役員だけで神主を頼んでお祀りしています。
また正月にはオビシャがあり、土師神社、八坂神社、愛宕様、貴宮様、稲荷様、子安様の6社をお祀りしています。かつて稲荷様は若い衆オビシャ、子安様は女オビシャで祀る神様でしたが、旦那オビシャで祀っていた4社と併せて、区長が中心になって区民館でお祀りする行事になっています。大竹のオボスナ様は八幡神社であり10月17日が例祭日ですが、役員が参列する神事だけの行事です。オビシャはクルワごとに行われ、台では男たちの八幡ビシャ、女たちの子安ビシャ、若い衆の水神ビシャがありました。