旧埴生郡 成田市長沼の祇園

3. 長沼の祇園の歴史

(1)昭和40年以前の長沼の祇園

 かつて長沼では、祇園が村をあげての唯一の祭りで、昔は外に出ている人や嫁に出た人も帰ってきたそうです。おもてなしの料理は、祇園といえばカツオの刺身というほどで、銚子からいつも来ている魚屋さんが、祇園の日にはカツオの刺身を持ってきて、台所で切ってくれました。これを食事の時間まで井戸の途中にぶら下げて冷やしておくのが、祇園のごちそうでした。
 祭礼は2日間で、7月16日は午前中に準備を行い、担ぐのは夕方からで、子どもたちは学校から帰ってきてから参加しました。夕方から始めて夜中まで担いでいました。17日も同様で、夕方から担ぎ出して一晩中担ぎ、夜が明ける頃、ようやく神社に納めました。また、18日には片づけとご苦労様会を行いました。
 触れ太鼓が先導し、子どものテンノウサマ、大人のテンノウサマの順に回りました。子どもは小学校4年生で仲間入りすると、4年生は提灯持ちで、5年生からテンノウサマを担ぎ、中学2年生が親方でした。中学3年生になると(昔は高等小学校を終えると)大人のテンノウサマに加わりました。

 長沼のテンノウサマの担ぎ方は、担ぎ手が2本の担ぎ棒の中に入り、肩の高さを合わせて寄りかかり、寝るように担ぎます。「担ぎ棒の外で担ぐのは棺桶だ」「寝て担げ」といいます。子どもも大人も担ぐ人が多かったので、みっしりと密集して担ぎました。

宵祇園(7月16日)

 城山から担ぎ出すと、まず弁天様にお浜下りに行きました。干拓前は、中之島に祀られる弁天様までテンノウサマも渡って行っていましたが、沼の干拓で根木名川の向こう岸になってしまうと、若衆頭(親方)だけが泳いで弁天様まで行って幣束を納め、テンノウサマは川岸で水に入れて洗い、これを「お浜下り」といっていました。根木名川は改修が進んでも、昭和30年代半ば過ぎまでは藻が生えて水が透き通り、小さな子供たちも入って遊べる川でした。

 お浜下りが終わると、まっすぐ半兵衛に向かいました。そこまではテンノウサマを汚してはいけないといわれ、田に入ったり転がしたりすることはありませんでした。
 半兵衛の家に入ると、玄関にテンノウサマを納めます。大人の神輿と子どもの神輿を玄関に並べると、大人たちは座敷に上がって「ご接待」を受けました。ご接待の内容は、昔はオニギリとお酒とオシンコ(キュウリの漬物)、豆腐くらいで、一升瓶でお酒を振舞えば「それがお祭り」だったといいますが、それでも毎年のことなので大変だったそうです。子どもたちは外でスイカやオニギリなどをご馳走になりました。半兵衛の親戚や「後ろ前(両隣)」の家から手伝いに来ていました。

 その後は、村中をなるべく一筆書きになるように回り、勢いづくと垣根に突っ込んだり、田んぼに転がしたり、「ひっくり返ったり」しました。ひっくり返るというのは、テンノウサマを担いだままプロレスのバックドロップのように背中から倒れ込むもので、神輿を投げる方向に体を投げ出して、素直に倒れれば良いのですが、怖がって肩をはずすと、担ぎ棒にはじかれて怪我をしたそうです。子どもたちは祭りのひと月前くらいから、城山で歌や太鼓、テンノウサマを担いでひっくり返る練習をしました。「中途半端は危ないから、みんなで思いきり倒れろ」と教わり、外遊びの延長で、誰もが自然にできるようになったそうです。

 大人も大勢でお酒を飲んで担いでいるので、時にバランスも崩すし、元気の良い人がわざと押して倒したりと、危なっかしいことを面白がってやっていました。神輿にもたくさんのお酒をかけるので酒臭く、周りで見ている子どもたちは、神輿が迫ってくると逃げ回って面白がりました。それでも女性の目から見ると勇敢で威勢が良く、「その頃の男たちは恰好良かったよ」とのことです。一方、酔いが回るとテンノウサマが重くなり「担ぎたくねえ」と神輿の上に座り込む人が出たりもしたそうです。
 また田んぼにテンノウサマが入ると稲が良く育つ、豊作になるといい、自分の田に入られても神様のことだからありがたいと文句を言うものもありませんでした。担ぎ棒が折れると、その年は良い年になるともいいました。テンノウサマは壊れても構わなかったのです。

 休憩場所は半兵衛のほか、区長の家と、その他「寄せてくれる家」に担ぎ込みました。寄ってほしいと要望を出す家もあり、庭で3回担ぎ上げると玄関に入れ、家の柱に担ぎ棒を触れさせるようなこともありました。休憩も長く、担ぎ手たちは庭に筵を敷いて輪になって座り、お酒を飲みながら唄を歌いました。皆でよく歌った唄に歌謡曲の「りんごの唄」「籠の鳥」があります。
 夜も更けて御仮屋にテンノウサマを納めました。

御仮屋

 祭りの数日前に、半兵衛の近くの「久兵衛の三差路」に御仮屋を建てました。城山の稲荷神社の拝殿の天井に上げてある部材を運んできて城山に向くように立てました。御仮屋の屋根を葺くのにヨシを使い、周りにはマコモを立てました。ヨシもマコモも沼から採ってきたものを使いました。良い香りがしたそうです。
 宵宮の晩に大人の神輿と子どもの神輿を並べて納めると、翌朝には地域の人たちが赤飯を炊いたりお酒を持って、御仮屋までお参りに行きました。

本祇園(7月17日)

 夕方から担ぎ出すと一晩中担いで、「納め」は朝でした。お宮の下でテンノウサマを洗い、蝋燭を灯した石段を上がる頃には、東の空が白々と明けてきました。昔は楽しみが少なかったので、皆で酒を飲んでご馳走を食べ、テンノウサマを担いで唄を歌うなどということが、本当に楽しかったそうです。

子ども神輿
子ども神輿
転がされる神輿
神官は座って祝詞をあげる
神官は座って祝詞をあげる
元文5年(1740)長沼村絵図
神輿に座り込む

(2)昭和40年頃から平成14年まで

 昭和30年代も後半になり、成田の排水を、全部根木名川に流すようになると、川は汚れて泡立ちました。同じころに成田空港建設に伴う根木名川改修工事で川幅も拡張され、弁天様まで泳いで行くことができなくなりました。またやはり同じころにテンノウサマの下敷きになって大けがをした人が出て、それから、中学2年までの子どもの祭りとして行われるようになりました。
 子どもたちが小さなテンノウサマを担ぎ、相変わらず唄を歌ったりひっくり返ったりしながら村を回り、半兵衛のほか中学生の親方(中学2年生)の家に担ぎ込んで、休憩しました。神輿を寄せる家では飲食を用意するだけでなく、子どもたちへ祝儀を出しました。いつの頃からかテンノウサマを担ぐのは宵祇園だけとなり、御仮屋がなくなりました。祇園囃子もいったん途絶えましたが、これは昭和59年に保存会が結成されて復活しました。

(3)平成15年からの長沼の祇園

 次第に子どもが少なくなって淋しい祭りになり、「こんな祇園だったらやらない方がまし」という意見まで出て、平成14年に区で相談の結果、再度大人がテンノウサマを担ぐことになりました。以前のテンノウサマよりひと回り小振りに新しく作り、また山車に小さい子どもを乗せて曳くのを長沼の祇園の売り物にして、賑やかな祇園を取り戻そうと意見がまとまりました。このとき祇園祭の運営と城山の管理のために結成されたのが城山会です。
 平成15年からは、神輿を寄せるのは半兵衛、区長、そのほか城山会の会員宅数軒とし、担ぎ込まれた家では祝儀を出す一方、寄せる家の負担が大きくなりすぎないよう、城山会から補助金を出すようになりました。
 日程を海の日を最終日とした土日月曜日に移したのがいつからか、定かではないそうです。テンノウサマを担ぐのは宵祇園だけで、まず弁天へ行き、半兵衛に寄ってから村を回ることに変わりはありませんが、その順路は、区長の家が毎年変わるのにあわせて、毎年多少異なるものになりました。

(4)これからの長沼の祇園

 祭礼の組織や運営方法を見直し、神輿を新しくして山車も作ったことで、集落全員で楽しむ祭りとして生まれ変わり、賑やかな祭りを取り戻しましたが、平成も終わり頃から、また人が集まらなくなってきたそうです。さらにコロナ禍により令和2年から5年まで中止され、令和6年は、ようやく5年ぶりの開催となったが、運行方法や経路を見直し、以前よりかなり縮小した形になりました。
 現在、城山会と、その次の世代(50歳前後)が祭りも含む区の運営を担っていますが、さらにその次の世代が不在です。近年は高校を卒業して長沼を出るとそのまま戻らないため、若い世代が減少し、神輿の担ぎ手が揃わない状況です。
 先行きが心配との声も聞かれますが、しかし、祇園が長沼にとって大切な祭りであることに変わりはなく、継続への模索が続けられています。