勝浦の秋祭り—遠見岬神社と八幡神社の祭礼—
2. 日程と内容
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(1)概要
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勝浦の秋祭りは遠見岬神社と八幡神社の一連の祭礼です。
遠見岬神社の氏子である浜勝浦と勝浦三町の上本町・仲本町・下本町を、地元では、それぞれ浜区、上町、仲町、下町と略称で呼び交わします。祭りでは浜区の漁師を中心に大漁と海上安全、また併せて地域全体の繁栄が祈願されます。神輿渡御は浜区が担い、三町はそれぞれ屋台を担当してきました。また、出水区は神明神社の氏子ですが、昔から勝浦の祭りに山車(神武天皇の人形をのせる江戸型の山車)で参加してきました。そして、八幡神社の氏子は浜区だけですが、かつては八幡様の神輿の還御後も屋台や山車の引き回しが行われ、一連の祭りが勝浦三町と浜区全体の「秋祭り」と意識されています。
日程は平成18年(2006)までは9月13日を遠見岬神社の祭日、15日を八幡神社の祭日として9月11日~15日の5日間でしたが、その翌年から敬老の日(9月第三月曜日)を最終日とする5日間となり、今に至っています。また昭和54年(1979)から松部、串浜、墨名、新官、沢倉、川津の各区の祭礼の日程を合わせて「勝浦大漁まつり(地元では「合同祭」という)」とし、3日目の午後に勝浦漁港近くの市営駐車場を会場に神輿が一堂に会し、式典を行ってきました。しかしコロナ禍で祭礼が中止になって以降、令和5年、6年とそれぞれの地区内の神輿渡御は再開したものの、合同式典の再開には至っていません。
その年の祭礼の開催は1月11日の明神講で、まず浜区で神輿の巡行の有無が確認されます。その後、合同式典の開催は、合同祭当番区が主宰する合同会議で決定されます。そして7月頃にすべての区の動向が出揃うと、勝浦三町の年番区と浜区の間で、手打ちの時間、お浜下りやお帳入りの際の三町の屋台の位置などの詳細について協議が行われ、決定事項が年番区から他の二町へ伝達されます。浜区と墨名区との協議も、同時期に別途行われます。
(2)日程
ミヤナギ(宮薙/宮掃除)
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漁協が土曜休みのため、祭礼準備は土曜日に進めることになっています。祭礼の1週間前の土曜日、令和6年は9月7日(土)に遠見岬神社、八幡神社、西宮神社のお宮の清掃、草刈りなどを浜区の6部(区内を分ける単位を「部」という)で分担して行います。遠見岬神社のミヤナギには勝浦三町の当番区である上町も参加し、石段や参道、境内、そして社殿内まで掃除を行い、鳥居や参道に提灯を下げます。その後、浜区の白丁や若衆(ワケエシュ)の手によって、境内の神輿庫に納められている遠見岬神社、八幡神社の2基の神輿が石段の下に降ろされます。それぞれ2本のモリ棒(担ぎ棒)で担ぎ降ろすと、フォークリフトで勝浦港の漁協倉庫まで運びます。
また、この日から4日間、浜勝浦区民館では夕方から白丁の担当が中心となって、子どもたちを対象に神輿唄の練習会を行います。
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鳥居に提灯をつける
神輿庫の大神輿 (左が遠見岬神社、右が八幡神社の神輿)
モリ棒の後方に縄をかける
神輿を境内から降ろす
神輿唄の練習会 -
浜勝浦神輿唄(抄)- 船のエ~ みよしに 鶯止めて 明日は大漁とヨ~ 鳴かせたい
ゆらりエ~ ゆらりと 寄せては返す 波の瀬に乗るヨ~ 秋の月
花がエ~ ちょうちょか ちょうちょが花か 来てはちらちらエ~ 迷わせる
わたしゃエ~ 勝浦 荒波育ち 波も荒いがヨ~ 気も荒い
おとこエ~ 伊達なら 勝浦沖の 潮の流れをヨ~ 止めてみろ
色はエ~ 黒いが 釣竿持てば 沖じゃカツオのエ~ 色おとこ
下本町武内勲さんから晒の奉納
- 9月12日午後、明神講に先立って下町の武内さんが遠見岬神社に晒を届けます。必ずしもこの日と決まっている訳ではなく、祭礼の数日前に、あらかじめ日を決めて届けに行くことになっており、本来は勝浦町で名主を務めた岩瀬家の役目でした。古くは朝のまだ暗い時間に、紋付きの羽織袴を身に着けて届けに行ったそうです。
昭和40年に岩瀬家が勝浦を離れることになり、遠見岬神社の信仰に篤い武内さんが、この役を引き継ぎました。当時26歳であった武内さんは、50年に亘ってこの役目を続けてきました。「遠見岬神社のご祭神の、天冨命様のオタマシをお守りする晒を奉納に参りました。本年もよろしくお願いいたします」の口上とともに、晒1反が宮司に手渡されました。これは14日の祭典でご神前に供えられ、神輿にオタマシ(御霊)を入れる際、ご神体を包むのに使われます。
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晒を奉納する武内勲さん
明神講(令和6年9月12日(木))
- 浜区では「明神講」から祭りが始まります。40~50年前までは子供たちが太鼓を叩いて、「明神講へ エッシャッシャイ、おじやんもおばやんも あがらっしぇ」と町内を触れ回りました。かつては明神講を兼ねて区の集まりが持たれ、「お宮へ集まってください」との触れ太鼓であったといいます。参加した子どもたちにはご褒美に菓子などが配られました。
現在は区の役員が17時頃からトラックの荷台に太鼓を乗せ、運転手1名と叩き手2名で回っています。トラックが入れない新屋敷の路地は太鼓を担いで歩くため、叩き手は2名必要です。現在、太鼓の音で区民館に集まるのは、お菓子とジュースが目当ての小さな子供たちです。
17時45分頃になると、役員が手に手に役職名の入った弓張提灯を持ってお宮にあがります。お神酒2升と腹合わせのキンメダイを奉納し、明神講の神事に参列します。区の主だった役職の方々16、7名の参加がありました。
そして神事が終わり区民館に戻ると、2階に神社の掛け軸と生花を飾り、宮司を中心に直会を行います。直会には区の男性40人程が集まりました。
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明神講の触れ太鼓
明神講の神事に参加するため神社に上がる役員
明神講
明神講の直会
祭礼2日目(令和6年9月13日(金))
- ①幟立て
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朝7時30分に会館に集合し、若衆総代は幟立てなどを行います。西宮神社の鳥居前に社名の入った幟を2本立てるほか、注連張りのための幟柱を7組、すなわち本部前(祭典事務所)、南(浜勝浦消防団詰所前)、えびす前(西宮神社前)、新屋敷坂、仲本町境、下本町境、沢倉境の7か所に立てます。幟柱の頂には榊の枝を麻で縛り、2本の柱の間に、注連縄と飾り提灯を渡します(えびす前は飾り提灯をつけません)。またそれぞれの柱に日の丸を揚げます。遠見岬神社の鳥居には、笹竹と榊を、本部前の幟柱に笹竹を飾ります。
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新屋敷坂の注連縄と飾り提灯
西宮神社の幟
遠見岬神社鳥居の飾り付け
②事務所開き-
区民館は、この日から神社の掛け軸を下げた祭壇が設けられ、祭典事務所となります。区民が御祝儀を持ってくると、会計が受け取り、祭礼で使う豆絞りの手拭いを返します。
- ③神輿の飾り付け
- 漁港では白丁が中心となり、祭礼で使う4基の神輿の飾り付けを進めます。遠見岬神社大神輿、西宮神社中神輿、子どもが担ぐ小神輿・小々神輿です。高校生以上は大神輿、中学生が中神輿、小学生が小神輿、小学校就学前が小々神輿というのが、担ぎ手のおよその目安です。
麻のロープに白い布を巻き、力綱とします。その上から御襷(オタスキ)と化粧綱を掛けます。御襷には、赤・黄・緑・水色・紫の五色の絹の縮緬布が使われます。モリ棒(担ぎ棒)は4本です。
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モリ棒を縛る麻縄は木槌を使って締め上げる
力綱をかける
御襷をかける
④久我家からお供えの奉納-
遠見岬神社に、浜勝浦の名主であった久我家から、お神酒1升と重箱に入った白米、半紙1帖、蝋燭2本、麻が届けられます。お神酒は瓶の口を開け、榊の枝を挿して届けられます。これらは翌朝の祭典に供えられます。
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久我家から届いた神饌
⑤宵宮- 夕刻18時から祭典事務所(区民館)の2階で宵宮が行われます。翌日の渡御の確認もあり、50~60人が集まりました。
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明神様の宵宮
祭典3日目(令和6年9月14日(土))
- 遠見岬神社(明神様)の祭日です。
①盛砂-
浜区の各家では、日の出とともに墨名の尊磯の浜へ行って砂を採ると、お宮の社務所前と石段に撒き、またそれぞれの自宅の門口の両側に盛砂を作ります。砂盛りともいいます。盛砂の上に塩を置く家もあります。雪をかぶった富士山のようになると良い形だといわれます。かつては夜中の12時に日付が変わるのを待って競争で浜へ行き、砂を撒きに神社に向かったといいます。誰も足跡をつけていない砂を採らなければいけないことと、石段の下から順に撒いていくので、遅くなると上がる段数が多くなることが、早さを競う理由でした。しかし近年は、砂を採りに行く手間を惜しんで門口に塩だけを盛り、神社にも行かない家が増えてきたといいます。門口の盛砂は、神輿が家の前に来る直前に手で崩して道路に撒きます。神輿の担ぎ手のすべり止めとのことですが、神輿が通る道を清める意味もあるようです。
役員は、お宮の社務所前と石段に撒くと、祭典事務所の幟柱の下に盛砂を作り、さらに尊磯の祭典の会場に砂を運びます。ここでは、夕方、お浜下りの神輿が入る直前に、砂が撒かれます。
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門口の盛砂
浜区祭典事務所の盛砂
②久我家から神饌奉納- 式典に先立ち、再度久我家から神饌として、甘酒と赤飯が運ばれます。地震で流されたご神体が漂着した際に名主家でお供えしたという甘酒と焼き米が、毎年の祭礼で奉納されてきましたが、焼き米が赤飯に代わって久しいとのことです。
式典後、重箱には神饌から野菜と果物がお返しとして入れられ、お神酒の一升瓶とともに久我家に返されます。この時、夜の尊磯での祭典で使うお神酒錫(瓶子)も、神社から届けられます。
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久我家から再度届いた神饌
③例祭の祭典- 浜勝浦の役員たちは会館に7時半に集合し、お宮に上がります。改めてお神酒2升と腹合わせのキンメダイを奉納します。
式典は勝浦三町の役員を迎えて8時に開始されます。千葉県神社庁の支援を受け、市原市の飯香岡八幡宮宮司が献幣使を務め、また、君津市の人見神社宮司を中心とする雅楽会が楽奏を担当しています。
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境内に集まった浜区と勝浦三町の役員
④神輿の村回り-
式典後、担ぎ箱に入れられた御霊を、白丁が担いで漁港に置かれた神輿の前に運ぶと、御霊入れの神事が行われます。お神酒による乾杯があり、その後村回りとなります。担ぎ手は腰に藁縄を巻くものとされ、豊作豊漁を願って身に付けるそうです。この「腰縄」はその年の新縄で作られた注連縄で、かつては各自朝市で買い求めたといいます。朝市での販売がなくなってからは、区でまとめて農家に依頼しているとのことです。
神官を先頭に、小々神輿、小神輿、中神輿、大神輿の順に、浜区と三町を渡御します。「ホラー ダイリョウ、ホラー ダイリョウ」の掛け声で、時にモリ棒を叩いて景気をつけ、また神輿唄を歌いながら渡御します。また担ぎ出しや神輿を置く前、祭典事務所前、お宮の前などの要所で、「ホラ、ホラ」「ウリャ、ウリャ」の掛け声で神輿を担いだまま腰を落として飛び上がることを繰り返し、これを「揉む」といい、また腕を伸ばして神輿を差し上げることを「差す」といいます。家の前で神輿を待つ人たちは、神官にオヒネリを渡し、お祓いを受けます。
久我家の前に神輿を置くと、勝浦三町から氏子総代や区長などの役員を迎えて、お神酒による乾杯と手打ちを行います。浜勝浦の主宰で、勝浦三町とともに地域の繁栄を祈念する意味があります。かつて、神輿渡御は必ず久我家の前から始まったといいます。担ぎ出しが漁港の荷捌き所となり渡御の経路は変わっても、浜勝浦で最も重要な祭典場所が久我家前であることに変わりはありません。手打ちの後、神輿の下に白丁の大頭など数人の担ぎ手が入り、乳幼児を手渡しで神輿をくぐらせます。「胎内くぐり」といい、丈夫に育つようにとのおまじないです。「泣くと丈夫に育つ」とも言い、わざと驚かし泣かせたりします。
その後、下町、仲町、上町へと神輿の渡御が続けられ、それぞれの祭典事務所前まで行くと、神輿を揉み、神輿台に置きます。そして各町の主宰で、三町と浜区の役員が揃って手打ちを行います。
上町から浜勝浦の裏通りを通って事務所に戻ると15時を回り、遅い昼食となりました。
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御霊入れの神事
小神輿
中神輿
久我家の前に据えられた大神輿
胎内くぐり
下町祭典事務所
下町祭礼事務所前で手打ち
仲町祭典事務所
上町祭典事務所では屋台が迎える
⑤お浜下りと尊磯の祭典- コロナ以前は、午後から墨名、新官、沢倉、川津、串浜、浜勝浦の神輿が市営駐車場に集合し、合同祭典が行われていました。しかし令和5年より各区の祭礼は復活するも、合同祭典は再開に至っていません。そのため、以前は20時頃から行われていたお浜下り(おはまくだり)の時間を早め、令和6年は17時頃の出発となりました。かつてはお浜下りも久我家から出発したそうです。高張提灯を先頭に掲げ、暗くなると神輿の提灯や電飾を灯し、再び下町、仲町を通過して尊磯へ赴きます。
尊磯は、墨名の三日月ホテル前の砂浜ですが、港湾施設の整備によって神輿が行くことができなくなり、今は尊磯の手前の船曳場を祭場としています。到着が20時頃。ここでは一度神輿を差したら置かなければいけないといわれており、祭りが終わるのを惜しむ担ぎ手たちは、ゆらゆらと右に左に、行きつ戻りつ、ようやく21時過ぎに差しあげて神輿を置き、祭典となりました。
尊磯の祭典は、神輿を冨貴島の方向に向け、久我家から届く一対のお神酒錫を供えて行われます。宮司は祝詞奏上ののち海にお神酒を注ぎます。そして役員の乾杯が行われると、すぐにお帳入りとなります。
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高張提灯を掲げて尊磯に向かう
尊磯の祭典
海にお神酒を注ぐ
⑥お帳入り- お帳入りは還御のことで「オチョイリ」ともいいます。「デンミョリ、デンミョリ」の掛け声で一目散にお宮を目指します。こどもたちも女性たちも提灯を持ち、大きな鈴を鳴らしながら、同様の掛け声で神輿を応援します。宮司も神輿の前を急ぎますが、鳥居の手前で立ち止まり、神輿を先にくぐらせます。これは「神様が先に鳥居をくぐると豊漁豊作」といわれているからだそうです。神輿は社務所前でまたひとしきり揉まれ、差されて、ようやく台に安置されると飾り紐と御襷を取り、鳳凰の足を抜きます。鳳凰の足を抜くとき「ホラー ダイリョウ、ホラー ダイリョウ」の掛け声がかかり、無事抜けると拍手喝采が起きます。モリ棒も2本にし、石段を引き上げるための綱をつけます。
石段の上には女性や子供たちが待ち構え、「デンミョリ、デンミョリ」の掛け声で、いっしょに綱を引きます。皆で引っ張らないと、急な石段を上げることはできません。落としたら大変なことになるので、手が空いている人は皆で手伝うのだといいます。特に女性が神輿を担ぐことはタブーとされた時代、神輿に関われることが嬉しくて、大勢の女性が集まったといいます。
境内では浜区と勝浦三町の役員が整列して神輿を出迎えます。神輿を拝殿に掛けると、宮司の手でオタマシが抜かれます。オタマシを縛っていた麻は、安産や子授けの縁起物として配布されますが、最近は欲しがる人が少なくなったとのことです。そして浜区の氏子総代長の「それでは、恒例によりお手を拝借いたします」の声掛けで、三町と浜区役員の手打ちが行われます。さらに役員たちは石段を下りると神社前の四辻で、再度の手打ちを行います。ここでは先年番(昨年の年番町)の仲町が「お疲れさまでした。それでは相引きでお願いします」と挨拶して手打ちを行いました。「相引き」とは、お互いに譲り合っても切りがないので、同時に帰路に着きましょう」という意味だそうです。浜区の白丁と若衆は神輿を神輿蔵に収め、ここでも手打ちが行われて2日目が終了しました。
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大勢で神輿を引き上げる
浜区と勝浦三町の役員が神輿を迎える
麻を配る
⑦三町の屋台と出水区の山車- この日は、午後から三町の屋台、出水区の山車が動き出します。三町の屋台や祭典事務所の準備は、商店が休み水曜日に、それも直前の水曜日一日で行われることが多いようです。とはいえ、かつては祭りの前に屋台を一から組み立てていましたが、今は組み立てた状態で屋台蔵にしまっており、出して埃を落とすくらいの準備だそうです。準備が簡単になったことで、逆に町内の結束は弱くなったという声も聞かれます。
また、三町で持ち回りの年番が、神輿や山車のルートを調整しています。特に大漁祭りの合同祭が行われると他地区の神輿が勝浦に入るため、調整がより重要になるそうです。翌年の年番を「後年番」、前年の年番を「先年番」といいます。
かつては神輿が還御するまでは、屋台を出したり囃子を打ってはいけないといわれていたそうですが、現在は浜区の要請も受けて、神輿の渡御を賑やかに迎えるようになっています。囃子連は各町内にあり、2週間ほど前から練習が行われています。
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仲町の屋台
出水の山車
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遠見岬神社祭礼巡行図 祭礼4日目(令和6年9月15日(日))
- 15時頃から三町の屋台と出水区の山車が曳き出されます。18時頃からはお宮前の四辻で4町が向かい合い、手打ちと囃子の叩き合いが行われます。22時頃に三町の年番引継ぎ式が行われて終了しました。
この日浜区では、翌日の舟渡しの準備のため、竹を伐り、船の飾り付けなどを行います。また14時から八幡様の宵祭として、事務所で直会が行われます。
祭礼5日目(令和6年9月16日(月祝))
- 八幡様の祭日です。
- ①八幡様例祭と村回り
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8時30分より八幡様で例祭が行われます。その間、漁港の荷捌き所では、八幡神社大神輿の飾り付けが行われます。御霊を漁港に運び、御霊入れの神事を行います。この日は他地区の祭礼が終わり、神輿を担ぎ足りない者が八幡様の神輿を担ぎに来るそうです。
村回りは明神様の祭礼同様に神官が先導し、小々神輿、小神輿、中神輿、大神輿の順に並んで行われます。家々で門口に盛砂を作って神輿を待つのも同様です。また、この日も久我家の門口に近い三差路で神輿を降ろし、乳幼児の胎内くぐりを行いますが、この場所は、厳密に久我家の門口前ではなく、三差路上で行っています。
ルートについては、明神様の神輿より簡略に回りますが、出水区と墨名区に赴くのは、この日だけとされています。出水区では覚翁寺前の祭典事務所で役員の出迎えを受け、手打ちを行います。かつては明神様の神輿が出水区まで渡御していましたが、昭和60年頃に仲違いし、そしてまた20年くらい前に仲直りしてからは、八幡様の神輿が赴くようになったとのことです。
またコロナ前までは勝浦駅まで行き、墨名区の祭典事務所前で手打ちを行っていました。墨名区の漁師は、ともに勝浦漁港を使う仲間であり、豊漁を祈り寿ぐ意味もありました。しかし国道の使用規制の関係と、この日に墨名区の月見会(お疲れ様会・祭りの打ち上げ的な飲み会のこと)が行われる関係で時間調整が難しくなったことなどから、令和6年は行わず、神輿は仲町の角を曲がり、漁港に向かいました。
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八幡神社例祭式典
②船渡し-
漁港でも、祭りの終わりを惜しむかのように、しばらく行ったり来たり、右に左にと神輿唄を歌いながら練り、そして揉んだり差したりが続き、その間、新婚の男性が海に投げ込まれたり、投げ込もうと担ぐ人たちももろともに海に落とされたり、また自分から飛び込む人もあって、これも祭りの終わりを惜しむ気持ちの表れのようでした。
ついに神輿を置くと、まず宮司が祝詞を奏上します。そして御襷、飾り紐、鳳凰をはずし、モリ棒を2本にし、胴に綿布団を巻いて船渡しを行います。大漁旗で飾った漁船を、漁港の岸壁から船橋のように並べ、最後尾の船まで神輿を渡していきます。船の接岸順は当日くじで決められますが、新造船などがあると、無条件で最後尾にするそうです。令和6年は2艘の船に留まりましたが、かつて7~8艘の船が並んで神輿を渡していたときは壮観だったそうです。
神輿を載せるのは左舷(トリカジ)からという決まりです。最後の船は神輿をのせると、漁港内をトリカジ方向(左回り)に3周して八幡岬の先まで行き、八幡様に向かってお神酒を海に注ぎ、豊漁を祈願します。船に同乗した人たちは、腰縄を海に投げて戻ってきます。接岸し、神輿を降ろすのもトリカジです。
船渡しは、船の安全と大漁の祈願であるとともに、八幡様への還御を表しています。かつて八幡様の神輿は八幡神社の社殿に納められていました。祭礼日の朝、神社まで船で迎えに行き、夕方にはまた、船で還御したそうです。
船渡しから戻った神輿は、数年前までは、翌日に遠見岬神社の神輿蔵に収めに行っていましたが、この日のうちに収めるほうが人手もあるからと、高張提灯を先頭に、木遣りを歌いながら収めるのが、祭りの一環のような形になって定着しました。しかし木遣り自体も、もともと浜勝浦にはなく、墨名、新官、沢倉、川津など周辺の地区で歌っているものを、祭りの交流のなかで自然と習い覚えたものだそうです。新婚者を海に投げ入れるときの掛け声が、木遣りの合いの手であったり、また船渡しの船の中で終始木遣りが歌われるのも、近年の流行とのことです。
石段をあがり神輿庫に納めると、祭礼委員長による手打ちで終了となりました。 -
海に投げ入れられる
神輿を載せる船は大漁旗を掲げる
1艘目の船から次の船へと神輿を渡す
船上では終始木遣りを歌う
八幡神社祭礼巡行図
- ◎焼き米について
- 焼き米は、久我家から神前に奉納されるだけでなく、かつては勝浦周辺で、祭りというと作られていたそうです。
朝市の出店者に、最近まで祭の期間に焼き米を販売していたという人がいました。その方によれば、焼き米はもち米で作るもので、まずもち米を水に浸し、蒸かし、それを乾かして保存しておくそうです。もち米の糒(ほしいい)です。そして、焼き米を作る時は、その糒を、ほうろくできつね色になるまで煎って精米機に掛け、下茹でした小豆またはささげと、その茹で水、砂糖を入れて炊くのだそうです。パラパラとした美味しい焼き米を作るためには下ごしらえに手間がかかり、その割に最近は求める人が減ったため、数年前に販売をやめたとのことでした。
- ◎神輿と山車について
- 浜勝浦の神輿は屋根を段々状に重ね葺きにしています。また屋根に宝珠と鳳凰を重ねてつけ、鳳凰が前のめりで尾羽があがっているなどの特色を持ちます。昭和35年(1960)に作られた現在の明神様の神輿は台座寸法が3尺5寸(約105センチメートル。重さ800キログラム(担ぎ棒をつけると1トン)といわれます。
先代の神輿は台座寸法が4尺8寸(約140センチメートル)です。明治41年に作成され、彫刻は四代武志伊八郎信明の作です。重さは2トンにもなるといわれ、昭和30年頃まで担いでいましたが、落として怪我人が出ることが続き、現在の神輿を作ってから神輿庫に仕舞われたままになっていました。それを平成15年(2003)に浅草の南部屋五郎右衛門で修理をし、翌年の16年(2004)におよそ60年ぶりに担いでからは、神社の石段を上げ下げする危険性を考慮して市役所のロビーに展示し、4年に一度のオリンピックイヤーに合同祭の式典で担ぐことにしました。平成28年(2016)まで4回担ぎ、しかしコロナ以降は、この大神輿を担ぐだけの人を集めるのは難しくなっているそうです。
八幡様のかつての神輿の台座寸法は4尺(約120センチメートル)で、遠見岬神社の大神輿を昭和30年頃に担ぎ出すのをやめてから、数年間はこの神輿で明神様の祭りもやっていたかもしれないとのことです。昭和52年(1977)に作った現在の神輿は3尺5寸で遠見岬神社神輿と同じですが、台輪の材の厚みが遠見岬神社の神輿の半分くらいに軽く作られているそうです。また中神輿は台座寸法が2尺7寸(81センチメートル)で、西宮神社(えびす様)の御霊が入ります。
三町の屋台は嶋村俊表・俊正などの彫刻に飾られた江戸時代後期のもの。舞台が付く芸屋台の形です。出水区の神武天皇の大人形をのせた山車は、大正時代に作成されたものです。
お囃子は、大太鼓1、小太鼓4、鉦2、笛が5~6の構成で、笛が江戸囃子よりも太い「4丁笛(4本調子)」。祭りで演奏する曲目は主に通りばやし、馬鹿ばやし、ショウテン(昇殿)の3曲で、他に鎌倉、神田丸などの曲があります。
(3)祭礼の組織
浜区では長老たちが区の役員や神社総代を務めます。区の役員は区長1名、区長代理1名、会計1名、6部の部長6名、監事2名の11名です。ほかに氏子総代4名、相談役1名があります。およそ70歳以上の方々ですが、若衆総代で役員を兼任している人もいます。
祭りの役員には若衆総代と白丁頭があります。若衆総代は通称「若衆頭(ワケエシュガシラ)」といい、現在30名。祭礼の執行部で、その代表が祭典委員長で責任者です。委員長の任期は2年で、その下に副委員長1名、書記4名、会計3名がいます。かつてはおよそ45~60歳でしたが、今は50~68歳となっています。
白丁頭は、通称「白丁」といい、若衆をまとめ、神輿担ぎをリードします。現在約40名(地区外の10名を含む)です。まとめ役が大頭1名、副大頭2名です。かつては28~45歳でしたが、現在は20~50歳となっています。
また、役員に属さない神輿の担ぎ手を「若衆(ワケエシュ)」といいます。高校生や、地元を離れ、祭りに帰ってきて神輿を担ぐ人、地区外から参加する人などがいます。