旧埴生郡 成田市松崎の祇園
3. 松崎の祇園の歴史
-
(1)資料に見る松崎の祇園
-
明治17年(1884)「下埴生郡松崎村誌」に、当時の祭礼の様子が詳しく記されています。
神輿は、まず千把ヶ池で浜下りを行い、小休憩後すぐに還御となったこと、そして裸体裸足の男たちが神輿を大騒ぎで奪い合う様子が記されています。陰暦六月廿七日ハ神官氏子惣代等神前ニ拝礼シ終テ、村内ノ壮夫等裸躰跣足神輿ヲ舁テ、千把池ノ邊リニ至る。之レヲ濱下リト称ス。而シテ神輿ノ宮殿ヲ出ルヤ、数百ノ男子之レヲ奉迎シ、異口同音ニ囃呼シ、競馳奔走互ヒニ神輿ヲ力争シ通路囂噧勢ヒ雷電ヲ崩ス。直チニ千把池頭ニ至リ、小憩ヲナシ、再ヒ神輿ヲ舁テ還社ス。此日ヤ毎戸業ヲ休ミ杯酒ヲ奉ケテ祝意ヲ表ス。之レヲ祇園祭ト云。
旧暦6月27日は、神官と氏子総代等が神前で拝礼し終わると、村の若衆たちが裸体裸足で神輿を担ぎ、千把ヶ池に行く。これを「浜下り」という。すなわち神輿が社殿を出るや、数百もの男が迎え、異口同音に囃し、競って神輿を奪い合い、そのけたたましさは落雷のようである。すぐに千把ヶ池の入り口に来ると小休憩をし、再び神輿を担いで還御する。この日はどの家も仕事を休み祝杯をあげる。これを祇園祭という。
しかし『千葉県印旛郡誌』は、「祇園祭」を境内社金比羅神社の祭礼とし、次のように記します。毎年六月廿七日祇園祭と称して神官氏子神前に十二膳の新箸を供えて村内安全を祈願し後、村内の青年神輿を舁きて千把ヶ池に到り御浜下りの式をなしたりしも、今は其の例を存せず。只神前に於ける祭典のみ。
大正初期には神輿渡御が中断し、神前の祭典だけだったようです。それがまたいつ復活したのか定かではありません。
-
(2)記憶でたどる松崎祇園
昭和30年代までの祭り
-
年輩の方々のお話では、喧嘩神輿、暴れ神輿が松崎の祇園の伝統でした。どの村にも神輿があった訳ではなく、八生地域8村でも神輿を担ぐ祭礼は押畑と松崎くらいで、神輿のない村の若衆が、祇園祭を羨んで神輿を奪いにくることもあったそうです。
昭和30年代の前半頃までは、宵宮には丸太で舞台を作り、青年団が芝居や踊りを披露しました。チャンバラの芝居が多く、消防小屋が区の集会所を兼ねていて、そこで熱心に練習しました。踊りのお師匠さんを招くこともありました。見世物小屋も出ました。
本宮は神輿だけの祭りで、午後から渡御を始め、神輿を納めるのは23時、24時でした。
大人神輿と子ども神輿の2基で、太鼓を叩きながら松崎中を担いでまわりました。まず神社から出ると坂を下り、千把ヶ池でお浜下りをしました。ここまで神主が同行してお祓いをし、その後、子ども神輿を池に投げ込んだり、大人神輿は浅瀬に入って揉んだりしました。
-
千把ヶ池でのお浜下り神事
子供神輿が池に入っている -
当時の神輿渡御は、神輿をぶん投げ(放り投げ)たり転がしたり、垣根や塀に突っ込んで壊してしまったり。担ぎ手が酔っているので田んぼや畑にも落ち、神輿は傷だらけで、壊れては何回も直しました。御神酒所も班(かつてのクルワ)ごとに設けられて数が多く、酒の量も多かったそうです。また区長の家の庭で神輿を揉むと、特別な振舞がありました。
そして最後に拝殿の天井をぶち壊すのが、松崎の祇園の特徴で最大の山場でした。何度も神輿を放り上げて天井にぶつけ、板が破れると神輿を納め、手締めとなりました。五穀豊穣を祈願して行われ、天井は破るのを前提に簡単に作られており、祭りが終わると張り替えました。 昭和50年代の祭り
-
高度成長期になり、昭和40年代はしばらく祭りが途絶えていた時期で、復活したのは51年。この頃の宵宮は、拝殿の前に土俵を作り、関取経験者が行司を務めて相撲大会を行っていました。子どもから大人まで皆で相撲を取って楽しみました。
また、本宮では神輿を朝から出し、暴れ神輿は昔のままに、神輿を投げたり転がすのは当たり前で、崖の下まで神輿と人が一緒になって落ちたこともあったといいます。しかし51年の復活以降、お浜下りは池に入らず、千把ヶ池の手前で神事を行っていました。
54年頃に千把ヶ池の埋め立て工事が始まると、55年を最後に、再度祭りは中断しました。58年から3年に一度の開催となり、その頃、お浜下りの場所が浅間池に移されました。 平成以降の祇園
-
昭和58(1983)年以降は、祭りに人が集まりませんでした。3年に一度の開催にしたら準備のやり方を忘れてしまって、もう祭りも終わりかなという話も出るほどだったそうです。しかし、地元愛の強い先輩たちが、地域を盛り上げるには祭りが一番だからと皆に声をかけ、青年会や消防団も、その声に応えて一生懸命に祭りを盛り立てようとしました。
当時は子どもが多く、子供たちも女性たちも皆で楽しめる祭りにするには「山車」が良いと話がまとまりました。皆で楽しめる祭りでないと、寄付も集まらないし妻の協力も得られない。当地区の人たちはよく成田の祇園を見に行くので、同じように山車を曳きたい気持ちも強かったようです。何年かリヤカーに太鼓を載せて曳いた時期を経て、山車を作ったのが平成4年。同時に神輿は宮出しと宮入りを担ぐほかは車載で山車を先導するようになり、暴れ神輿は影を潜めました。山車と同時に佐原囃子の久保木師匠の指導で下座連も立ち上がり、一度途絶えた祇園太鼓(松崎太鼓)の復活もあり、新たな形での再出発となりました。
そして、かつて松崎祇園の最大の山場とされていた拝殿天井のぶち壊しは、「松崎の人は神様を冒涜してるんじゃないか」と言われたり、また「明治頃長老たちと揉めた若い衆が、腹いせに神社の天井をぶち抜いたのが始まり」という話も出て、若い衆の納得のもと平成16年が最後になりました。
-
(3)これからの松崎の祇園
-
宵宮、本宮ともに子どもから年配者まで、女性も男性も大勢の住民や周辺地域の方々が集まり、盛況に行われています。「時代に合わせて変化することが、古き良きものを残すことを可能にする」との信念から、山車の祭りに舵を切ったことで、地域が一体となる祭になり、今に続いたといいます。継続のために変化を選択する姿勢は、長沼や寺台とも共通しています。
近年は、宵宮の出店(でみせ)で使う無料飲食券を配ったり、カラオケ大会を催したり、山車を曳く子供たちに小遣いを出すなど、多くの住民の参加を促す工夫を様々行っています。しかし、それでも神社や祭りへの関心は薄くなる一方だそうです。コロナ休止後の令和4年、区長や神社役員は人が集まるか心配で再開を悩んだそうです。実際には盛況となり安堵したとのことですが、いつまで継続できるか悩みはつきないそうです。松崎のコミュニティーにとって祭りは大切だという認識のもと、できる限り続けていきたいとのことでした。