旧埴生郡 成田市長沼の祇園

1. 地域の環境

(1)長沼の概要

 根木名川下流左岸に位置します。安政3年(1856)の家数93、人数500。明治24年(1891)の戸数103、人口535。令和6年現在の戸数も約100戸とのことですが、高齢者夫婦や独居高齢者の世帯が増えているそうです。
 長沼の周囲には、かつておよそ250haの瓢箪形の「長沼」が拡がっていました。沼に半島状に突き出した台地上に中世城址があり「城山」と呼ばれ、その南側斜面の腰曲輪部分に、長沼の鎮守社である稲荷神社が祀られています。集落は城山の西側と台地の南縁に形成され、田畑は少なく、多くの住民が沼の漁撈で生計を立てていました。沼の南側を前沼あるいは表沼、北側を後沼(うしろぬま)あるいは裏沼と呼び、そして前沼と後沼をつなぐ瓢箪のくびれ部分に小さな島があり、弁天様が祀られていました。深さは前沼が2尺(60cm)、後沼の深い所で4尺(120cm)あり、表沼から裏沼にかけてゆるやかな流れがあり、特にくびれ部分の流れは速く、エビがたくさん湧き、そのエビを目当てにウナギが集まるなど、良い漁場となっていました。

長沼稲荷神社
長沼稲荷神社
元文5年(1740)長沼村絵図(長沼区有文書・写真提供は成田市立図書館)
 

(2)城山の稲荷神社および地域の神社

 城山の稲荷神社の周囲には、いくつかの石宮が祀られています。そのひとつが八坂神社で、祇園の祭りが流行し、自分たちもやりたくて勧請したものだろうといわれています。ほかに日枝神社、神明社、清之神社などが石宮として祀られていることが、神社石段右手の石碑に記されていますが、どの石宮がどの神様に該当するか、すでにわからなくなっているようです。祇園祭礼の神事は稲荷神社の社殿で行われており、神輿も拝殿に納められているため、「祇園のときだけテンノウサマがどこからか飛んでくるんだろう」ともいわれています。

城山の石宮
城山の石宮

 なお、長沼の男オビシャは、村内に祀られる天照皇大神、稲荷、水神、権現、弁天を「五社様」として祀っています。5社の木製のお宮を1年間ヤドの家で祀り、オビシャでは「五社参り」といって、鎮守の稲荷神社のほかあちこちの石宮をまわり、注連縄と幣束の交換をし、それから木の5つのお宮を次のヤドに送ります。神主さんを招き、子孫繁栄の意味でフナの腹合わせをし、また料理には鯉こくがつきものでした。かつては1月15日にヤドの家で行っていましたが、現在は15日に近い日曜日に、共同利用施設で行っています。

ヤドに祀られる五社様
ヤドに祀られる五社様

(3)長沼事件

 長沼を語る上で欠かせない出来事に、明治期に起きた沼(長沼)の漁業権を巡る係争があり、「長沼事件」と呼ばれています。概要は次のとおりです。

 長沼村は、江戸時代には幕府に一定の運上金や年貢を納めることで、漁業・採藻・渡船営業等の権利を得て独占的に沼を利用していたため、共有利用権を望む近隣の村々との間にたびたび出入(訴訟沙汰)となりました。明治維新の混乱の中、周辺15か村は沼を入会地とすることを主張し、一方、長沼村では小川武平が先頭に立って所有権の獲得の請願を繰り返しましたが、なかなか聞き入れられませんでした。偶然小川が福澤諭吉の『学問のすすめ』を手に取って感銘を受け、福澤に協力を依頼するため自宅を訪ねたのが明治7年(1874)12月15日のこと。福澤は、県へ提出する嘆願書の作成を手伝い、県令柴原和あてに書簡を送るなど長沼村への支援を続けました。その結果、同9年7月には、沼を官有地としながらも、5か年ごとの契約で長沼村のみに借地権を認める決定が出され、さらに明治33年3月29日には、ついに沼の無償払い下げの許可が下り、所有権回復の念願が叶うところとなりました。

 福澤が一銭の報酬をも受け取らず、かえって小学校の建設資金を出すなど、心を寄せ支援を続けたことに対し、長沼の人たちは今も感謝の念を抱いています。毎年9月の彼岸には区役員代表3名で麻布善福寺にある福澤の墓所を参拝し、また3月29日を払い下げ許可が下りた記念日として、役員全員で「長沼下戻記念碑(大正7年(1918)建立)」に集い、福澤の肖像写真に餅、赤飯、清酒を供えて万歳三唱を行っています。

(4)沼の干拓

 しかし拓かれた田は湿田で、水路が網の目のように通り、船で耕作に通わなければなりませんでした。泥深い田で行う田植えは、腰まで浸かって立って苗を植え、または田の上に2本の竹を渡し、その上に素足で乗り、右側に3株、真ん中に2株、左側に3株を植えて、竹をずらしながら植えていく「竹渡り」という方法で行いました。また稲刈りには田舟が必需品で、増水によって水に浸かった稲を刈る「水稲刈り」になる場合もありました。特に後沼は前沼よりも泥深く、耕地としての利用が進まなかったそうです。

 昭和33年から利根川の浚渫土により後沼の、45年秋から46年冬にかけて、豊住工業団地造成の山土により前沼の土地改良工事と耕地整理が行われました。また同じ頃から成田空港建設に伴う根木名川改修工事が始まり、川幅の拡張、堤防のかさ上げ、大型排水機の設置等が行われ、面目を一新しています。

 しかし平成に入っても3年、8年、16年、18年と浸水被害があり、水害リスクを完全に克服したとはいえない状況もあります。