松澤熊野神社神幸祭
3. 今回(令和5年)の神幸祭の記録
- 今回は、これまで別の日に行ってきた式年神幸大祭・芸能足揃・前日祭を1日にまとめ、神幸も2泊3日を1泊2日に短縮して実施しました。
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(1) 式年大祭・足揃・前日祭【10月1日(日)】
会場準備
当日朝6時に集合し、幟をあげ、会場整備を行いました。-
参道
ご神木
準備の整った境内
来賓・参列者を待つ拝殿
手水舎前に設けられた祓所
御札・御守・御朱印頒布所
来賓受付
参列者受付
式年大祭
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- 沿道首長(香取市長、東庄町長)、衆議院議員、県議会議員はじめとする参列者は受付後、手水舎前の祓所で手水を行い、昇殿した。
- 宮司、献幣使等の神職一同と主催者等の関係者は、神職の控所となった神社手前の塚本家で行列を整えて境内に入場。
- 手水舎前の祓所で修祓を行い、再度行列を作って拝殿へ昇殿。献幣使は千葉県神社庁香取支部長がつとめた。
- 祭典は10時から次のとおり行われた。
修祓→宮司一拝→開扉→献饌→宮司祝詞奏上→献幣使献幣・祭詞奏上→玉串奉奠→撤饌→閉扉→宮司一拝
- ※手水舎前の祓所で修祓を行い行列の形で昇殿するのは、松澤熊野神社の祭典では式年大祭に限らず通常の形である。
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控所から境内への入場(先頭)
控所から境内への入場(後方)
祓所における修祓
昇殿
祭典
直会
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- 大祭委員長として旭市長が主催者挨拶を行った。
- 衆議院議員、参議院議員、沿道首長から祝辞をいただき、最後に宮司が謝辞を述べた。
- 甘酒により乾杯を行った。
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大祭委員長(旭市長)挨拶
謝辞を述べる上代宮司
甘酒で乾杯(境内)
甘酒で乾杯(拝殿)
足揃
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「足揃」とは、神幸行列に供奉する芸能団体が御神幸に先立ち、松澤熊野神社の参道で芸能を披露することです。平成11年までは一日かけて行っていました。芸能団体にとっては神幸祭直前のリハーサルであり、また松沢の人たちは参道に桟敷を設け、親戚を招いて芸能を楽しんだそうです。
今回は供奉芸能が2団体に留まり、また祭礼後の「笠こわし」が取りやめとなったことなどから、会場を参道から境内に変更し、桟敷は設営は行いませんでした。 -
- 南堀之内区の使者が殿様に芸能披露の許可を得、下座の演奏を行った。
- 諸徳持区の使者が殿様に芸能披露の許可を得、下座の演奏を行った。
- [松沢番所]
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担がれて入場する殿様
門番
司会者
辻番
2人の殿様 - [南堀之内区]
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参道に控える南堀之内の一行
辻番から盃を賜る南堀之内の使者付
開門(羽織袴姿の門番と6尺棒を持つ案内役)
場所を入れ替わる使者と使者受(男比べ)
口上を述べあう
退場の摺り足
南堀之内の下座
下座の後ろに宇賀神社のお宮(背負い神輿) - [諸徳持区]
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諸徳持の使者付
使者の入場)
殿の裁許
場所を入れ替わる使者と使者受(男比べ)
使者一行の退場
諸徳持の下座①
諸徳持の下座②
子ども神輿
- 足揃の詳細
- ①番所の設営
- 足揃の会場を参道から境内へ移したことから、これまで大鳥居に設けられていた門も境内の入り口へ移されました。松澤熊野神社の番所の門は伝統的に赤色とされ、「瑞穂国豊年満作の守 熊野神社式年御神幸祭」の看板が立てられました。
門の外に辻番、内に門番が2名ずつ、拝殿に設えた「殿中」には殿様と使者受が2名ずつ配されました。辻番2名は朱塗りのひょうたん徳利と大きな盃を持ち、酔った素振りで観客を笑わせる道化的な役割です。また門番2名は、左京、右京の家から一人ずつ務めることになっています。 - 殿様は小学校低学年(今回は1年生と2年生)の2名の男児が務めました。殿中への入場の際、地面に足をつけてはいけないといわれ、地域の男性が肩に載せる仕来りがあります。また、ひな壇の殿様の脇には母親が着物姿で座り、母子の晴れ姿が披露されました。
- ②芸能の進行と口上
- 南堀之内は、高張を先頭に、使者付3名に前後を守られた使者が門前に立ち、まず南堀之内の使者付が、松沢の辻番と以下の口上のやりとりを行いました。
- 辻番1「いずれの使者でござる」
使者付「南堀之内の使者、御殿にお願いの儀あり。よって使者の案内、お頼み申す」
辻番1「御同役、いかが取り計らいましょうぞ」
辻番2「良きように」
辻番1(門を叩き)「南堀之内の使者、到着につき、開門頼もう」
門番「番所前、取り込みのため、しばらくお待ちあそばされ」
辻番1「お聞きの通りでござる。しばらくお待ちなされ」
辻番2(使者付に盃を差しだす)「まずは一献」
辻番2(酒を注ぎ、使者付が飲み干すと)「お見事でござる」
辻番1(門を叩き)「再度の願い、開門頼もう」
門番「開門つかまつる」
案内役の手で開門され、一行が高張を先頭に進み始めたところで、案内役の六尺棒にて再び止められます。-
門番「お使者、大儀でござる。お使者、暫く。番所前混雑につき、警固をもってご案内仕る。ゆるゆると、お通り召され」
使者の一行は、拝殿へ進みます。拝殿前で高張と使者付が脇に逸れ、使者1名となったタイミングで、使者は、独特な摺り足となります。殿中にあがるのは使者1名のみです。
使者(殿の前で一礼し)「御免」
使者(使者受の前に座り)「南堀之内の使者、金親碧斗」
使者受「当所の使者受、塚本清左衛門尉清嗣、お使者とあらば、そこは端近(はしぢか)、いざ、まずこれへ」
使者「しからば、御免」
使者受の口上は、「そちらは下手ですので、どうぞこちらへ」との意味であり、席を変える時のにらみ合いの所作が「男比べ」ともいわれる見どころです。
使者受「お使者の趣、これにて承る」
使者「このたび、熊野神社、海上郡三川浦へ御神幸に際し、氏子たる弊区、遊芸をもって御供仕るところ、本日の足揃にあたり、当関所、役置(やくおき)、相変わらずのお取り持ちくださるの段、ありがたく存ず。ついては当関所、通行、御宥免くだされたく、ひとえに御願い奉る」
使者受「殿に上申な仕る。しばらく、お待ちな遊ばされ」
使者受(殿に向かい)「殿、お使者の趣、いかが、取り計らいましょうや」
殿「その方、良きに取り計らえ」
使者受(使者に向直り)「殿、御聞き相済みにより、心おきなく、ゆるゆるとお通りな召され」
使者「余はありがたく存ず。しからばこれにて御免。」
使者と使者受が、再度席を代わり、使者は使者受と殿にそれぞれ一礼して殿中を下がります。使者一行が門まで戻ると、待機していた下座一行が境内に入りました。
諸徳持は、使者付、使者の順に並び、その周りを4人の金棒付きが囲む形で門前に立ちました。 口上や行列の人員、門から拝殿までの歩き方まで、南堀之内とは若干異なり、諸徳持の使者付と使者は、門から拝殿まで終始、右足と右半身、左足と左半身が一緒に前に出る歩き方で進みました。 - ③下座
- 南堀之内と諸徳持の、それぞれの下座連は、神幸祭にむけて新たなメンバーも加えて練習に励み、その成果を披露しました。諸徳持ではメンバーの半数以上が初めての参加で、7月6日から週4日、休むことなく保存会の師匠の指導を受けながら練習を重ね、保存会の20数曲のレパートリーから14曲を覚えて神幸祭に臨んだとのことでした。
それぞれ1時間ほどの持ち時間で、「さんぎり」に始まる囃子が披露されました。南堀之内の下座は恵比須の人形をのせた屋台とともに入場し、大太鼓1、小太鼓(締太鼓)2、大鼓(おおかわ)3、小鼓(こかわ)2、鉦1,篠笛7,拍子木1名の編成で演奏しました。諸徳持は小学生以下17名の子どもとお母さんたちが担ぐ子ども神輿が下座を先導して入場し、下座の囃子にあわせて揺らしました。そして、下座の編成は大太鼓3、小太鼓2、大鼓2、小鼓3、鉦1,笛7,拍子木1名でした。
前日祭
- 本来ならば神幸の前日に行うべきものですが、参列者の負担軽減のため足揃に続いて行われました。
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- 拝殿で祭典を行った。
- 神輿を社殿の前に出して担ぎ棒、力綱(化粧綱)を掛けた。
- 御手洗の井戸から手桶に汲んできた水で、神輿を清めた。
- 神輿を社殿内に再度移動して本殿前に据え、宮司により御霊移しが行われた。
- ※前回までは神輿を御手洗の井戸まで移動させていたが、今回は担ぎ手の減少と高齢化から、社殿前から神輿を移動せず、水を手桶で運んで行った。
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前日祭祭典
御手洗の井戸から水を汲む
神輿に担ぎ棒をつける
力綱(化粧綱)を掛ける
御手洗の井戸の水で清祓
御霊入れ
(2)式年神幸祭【10月7日(土)~8日(月)】
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これまでの2泊3日の行程を1泊2日に短縮して実施しました。
従来、三川までの「おいで道」には、集落ごとに11か所の番所が設けられていましたが、今回、設営の負担軽減を図り、また供奉芸能も少なくなったことから、東庄地区、海上地区で、それぞれ1ヶ所ずつにまとめてはどうかとの提案が事務局側からなされ、各地区で調整が行われました。その結果、今回の番所は、東庄・見広・三川の計3か所となりました。
一方、神幸の意義は損なわないよう、沿道各区での祭典は省略せずに行い、地域の平安と五穀豊穣を祈念しながら三川に向かい、三川浜でお浜下りを行うと、還御の沿道でも祭典を行いながら神社に戻りました。 - 7日のルート
- 熊野神社(発輿祭)→志高(奉迎祭)→東和田(駐輦祭)→大友(大井戸祭・奉迎祭)→東庄番所(正式参拝)→松ケ谷(多田家駐輦祭・戸板祭)→岩井(駐輦祭)→蛇園(平山家駐輦祭)→三川(熊野堆奉迎祭)→三川番所(正式参拝)→御旅所(正式参拝・御旅所祭・泊)
- 8日のルート
- 御旅所(御旅所発輿祭)→三川浜(渡海祭・お浜降り・三川浦還御祭)→網戸(駐輦祭)→江ヶ崎(駐輦祭)→琴田新田境(駐輦祭)→新町(石島家・加瀬家駐輦祭)→諸徳持(駐輦祭)→熊野神社(還御祭)
ご神幸(神輿渡御)の詳細
- 【発輿】
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熊野神社に7日3時集合。4時から拝殿で発輿祭が行われ、終わると参列者に続いて神輿が拝殿から境内に出されました。神輿を野菊、シイの小枝、ススキの穂で飾るのが当神社の伝統です。およそ200人に及ぶ供奉者の召し立てが順に行われ、行列を整えて鳥居まで進みました。
神幸行列の先頭に立つのは、本来はお休み権現がある仁良の人たちの役目であったと伝えられますが、近年は長岡と原宿の区長と区長代理4名が務めています。神輿を担ぐ舁夫も、長岡と原宿の若衆たちの役目です。今回、長岡・原宿両区から53名が「警固・舁夫」として参加しました。鳥居先で神輿をトラックに乗せると、供奉者も車輛に分乗し、志高に向けて出発します。時刻は5時。伝統的に神幸祭発輿の時間とされる「卯の上刻」の出発でした。
神幸の順路と祭典場所に大きな変更はありませんでしたが、今回、沿道や祭典場所での酒肴の提供を断り、神幸関係者の飲み物や食事等がすべて神社から持込まれたことは、特筆すべき変更点といえるでしょう。
鳥居先でトラックに乗せた神輿は、大友の奉迎祭、蛇園の平山家駐輦祭、熊野堆奉迎祭の3ヶ所で長岡・原宿区の夫の手で祭場へ遷されましたが、他の祭場では車載のまま神輿の向きだけを変えて祭典が行われました。 -
発輿祭の供物
発輿祭
伶人
発輿を待つ神輿
猿田彦
長岡・原宿区の舁夫に担がれた神輿 - 【志高】
- これまで志高の番所(宮前番所)で区の役員の方々の正式参拝を受け、次に遠藤家の氏神前で祭場に神輿を安置して祭典を行っていました。しかし、今回は志高に番所が設けられなかったこと、遠藤家祭場まで大型車輛が入るのが難しいこと、そして遠藤家からも、高齢を理由に神幸の受入れを今回で終わりにしたい旨の申し出があったことから、志高集会所(宮志構造改善センター)での奉迎祭にまとめられました。志高八幡神社を兼務する府馬愛宕神社の岩城宮司が斎主となって、式典が行われました。
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神輿の向かって左に初内大神の金幣、右に志高八幡神社と南堀之内宇賀大神のお宮が並ぶ
巫女舞
斎主を務めた岩城宮司 - 【東和田】
- これまで番所を設けていた東庄町ふれあい公園で、駐輦祭を行いました。東庄町域の番所は東庄番所にまとめられることになりましたが、ここでは東和田区だけでなく、伝統的に稲荷入区、大久保区の役員、稲生大神(稲荷入)、愛宕神社(大久保区)の総代の参拝を受けてきたため、今回も東庄番所とは別に祭場が設けられました。
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駐輦祭祭典 - 【大友】
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まず大井戸で東大社の飯田宮司によって神輿が清められたのち、塚の上に設けられた祭場に移り、飯田宮司が祭主となって奉迎祭が行われました。
大井戸と塚の整備は、祭礼の3週間前の9月17日に地域の方々の手で行われました。大井戸はポンプでいったんすべての水を抜いて掃除がされ、底に川砂が敷かれました。数日で新たに湧き出る清らかな水で満たされるとのことでした。また井戸の周囲には山砂が敷き広げられました。祭場となる塚は、生い茂った灌木や草が払われ、山砂が敷かれました。 -
前回までは塚での奉迎祭が先に行われ、大井戸祭が後でしたが、今回は順序を逆に行いました。また大井戸までの坂を長岡・原宿区の舁夫が担いで往復しましたが、今回は車載のまま、大井戸祭が行われました。塚の祭場では、長岡・原宿区の舁夫によって車輛から降ろされ、塚の上に安置されました。さらに、これまで大友番所で行われた地区役員の正式参拝は、奉迎祭にまとめられました。
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榊を大井戸の水に浸す
神輿を榊で祓う
舁夫によって祭場に運ばれる神輿
奉迎祭 - 【東庄番所】
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門の上部に「祝熊野神社御神幸」と大書された看板が、番所(殿中)の左右柱には「松平出羽守」の提灯がつけられました。御神幸の一行は、門の手前100メートルほどの場所で行列を整え、使者を先頭に、殿中へ進みました。
使者付「頼もう、熊野神社の使者、到着に着き、開門頼もう」
門番「通れ」
門番2名で開門すると、1名が使者付に対面する。
門番「当番所の門番、宮沢五右衛門ひろかず、しからばご案内つかまつる」門番2名が使者と使者付の前後に立ち、殿中へ進みます。
門番「只今、熊野神社の使者、ご案内つかまつる」
殿中の前まで来ると笠と刀を使者付にあずけ、殿中の間の床面から一段下がった段まで、階段をあがりました。
使者「このたび、熊野大御神、海上郡三川浦にご神幸につき、供奉一同まかり通る。よって区内安全のお札を、献上つかまつる」
三宝にのせたお札(太玉串)が、使者付から使者へ、使者から番所の使者受へ、そして使者受から殿様へと差し出され、殿様が三宝の上のお札を受け取ります。
使者が階段を下り、刀、笠を身につけると、門に戻らず進行方向へ進み、その背後から「お使者、大儀」と声がかかりました。そして、その後を熊野神社ご神幸の一行が入場しました。
番所内に入ると待ち構えていた小南の若衆たちに神輿が渡され、鳴り物(お囃子)にあわせてしばらく担がれました。鳴り物は篠笛と大太鼓(鋲打両面太鼓)からなり、大太鼓はひとり1台を、環を通した布紐を左肩にかけて担ぎ、右手のバチで打つ形で7名ほど、篠笛が10名ほどの編成でした。殿中前に、殿様と向き合うように神輿が安置されると正式参拝の祭典が行われました。東和田、大友、青馬、粟野、小南の各区役員が玉串奉奠を行い、宮司からは大玉串が授与されました。
なお神幸行列通過後、諸徳持、南堀之内の一行が、それぞれ番所に通行許可を求め、番所内で芸能の披露を行いました。
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番所に進む神幸行列
口上を述べる使者
小南の若衆が神輿を担ぐ
正式参拝 - 【松ヶ谷】
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多田家の庭で祭典が行われ、当主に宮司から太玉串が、続いて四天王から御神矢が2本贈られました。次に大宮神社境内に入り、「戸板祭」が行われました。
「戸板祭」の名のいわれは、急遽、ここで祭典を行うことになったので、社殿の扉(戸板)で祭壇を設けたことによると伝えられています。神饌を三宝にのせず戸板にそのまま並べるのが、ここでの祭りのやり方だったですが、令和5年は他祭場同様、車載されたままの神輿の担ぎ棒の上に板を渡し、三宝に載せた神饌を並べる形で行われました。 -
多田家 四天王から御神矢贈呈
戸板祭 - 【岩井】
- 24年前に番所が設営された、滝のさと自然公園の駐車場を会場に、岩井地区の駐輦祭を行いました。
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岩井駐輦祭 - 【見広番所】
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JAちばみどり海上中央支店の敷地を会場に、見広地区の番所が設けられました。門と本陣の設営はなく、通行許可の挨拶などは会場の中央の壇上で、見広区長が対応しました。
諸徳持、南堀之内は午前中に芸能披露を終え、神幸行列の到着は正午過ぎとなりました。行列を整えて番所に入ると、使者と見広区長とのやり取りは以下のようでした。使者「このたび、熊野大御神、海上郡三川浦にご神幸につき、供奉一同まかり通る。よって区内安全のお札を、献上つかまつる」
使者の通過後、神幸行列一行が番所内の観衆の前を進み、神輿が会場中央に奉安されると、地区の方々の正式参拝の祭典が行われました。区の役員だけでなく元海上町長や雷神社の役員、会場を提供したJAちばみどり海上中央支店長等の参列、参拝がありました。
区長「謹んで、頂戴いたします」 -
通過する御神幸行列
番所の設い
見広区長にお札献上
正式参拝 - 【蛇園】
- 平山家の氏神前の祭場で、土壇上に神輿を移動し「七五三掛竹祭」が行われました。蛇園区の役員、稲生神社役員の参列、参拝がありました。最後に平山家当主へ、宮司から太玉串が、続いて四天王から御神矢が2本贈られました。
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祭場に安置された神輿 - 【三川熊野堆】
- 三川下宿区の熊野堆の石宮前にウマを置いて神輿を安置し、矢刺神社の往古宮司が祭主を務めて奉迎祭が行われました。熊野堆を管理する大久保家ほか、下宿区の役員や矢刺神社の役員が参列、参拝し、大久保家当主に宮司から太玉串が、続いて四天王から御神矢が2本贈られました。
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奉迎祭 - 【三川番所】
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いいおかユートピアセンターの駐車場が、今回の三川番所の会場となりました。「本陣(三川では伝統的にこう呼ぶ)」はトラックを利用して作られ、門柱には「三川番所」「是従豊年郡万作村九十九万石大漁有馬守領地」の文字が掲げられました。
三川番所では、12時50分から関係者一同が本陣前に整列して開所式が行われ、三川地区実行委員会の片桐会長が、開所宣言を行いました。そして地元の和風バンド「椿の海」により、「九十九里大漁木遣り唄」「組曲椿の海」「祈る豊年おはまおり」の3曲が演奏されました。引き続き諸徳持、南堀之内の順で芸能の披露が行われ、神幸行列の入場は16時45分でした。使者付「頼もう、熊野神社の使者、到着に着き、開門頼もう」
門番(2名で)「開門仕る」使者付3名、使者3名が本陣へ進むと、使者代表1名が笠と刀を使者付にあずけ、殿中の間の床面から一段下がったところまで階段をあがります。
使者「このたび、熊野大御神、海上郡三川浦にご神幸につき、供奉一同まかり通る。よって区内安全のお札を、献上つかまつる」
使者付から使者、三川の使者受、殿へと順に三宝にのせたお札が上申され、殿は三宝ごと受け取ると、すぐにもう一人の使者受に、そのまま預けました。
使者受「お使者、お役目大儀」
使者一行は、本陣前を通過し、その後を神幸行列が入場します。本陣の前に神輿を安置すると正式参拝が行われました。参列、参拝者は大久保家当主、三川地区実行委員会を構成した三川地区出身の旭市議会議員と三川7区の役員であり、7区それぞれに宮司から太玉串が授与されました。
正式参拝の祭典終了後、神輿はユートピアセンターの奥の、屋根のある車止めスペースに移動し、御旅所祭が行われました。車載のまま神輿と供奉社のお宮と御幣はここで一泊し、松沢の神輿世話人が夜通しの警固を行いました。
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開所式
和風バンド演奏
番所門番
本陣前に到着した使者・使者付
お札献上
神輿入場
正式参拝
御旅所へ入場 - 【お浜下り】
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8日は8時45分から発輿祭、続いて召立が行われ、大久保家当主を先頭に、目那区と犬林区の高張提灯、三川7区の区役員、三川区出身の旭市議会議員、矢刺神社宮司と続き、そのあとに松澤熊野神社の神幸行列が続く形で、三川浜の渡海祭の祭場まで歩いて渡御を行いました。
浜に入ると鳴り物(お囃子)が始まり、途中何回か揉みながら祭場まで進むと、祭場前で「アンバ」が披露されました。鳴り物(お囃子)は長岡・原宿が交互に担当することになっており、今年は長岡区が担当。大太鼓2基と篠笛5本の構成でした。また「アンバ」とは、差した神輿をぴたりと止めることをいい、これが長岡・原宿の舁夫たちの自慢であり見どころでもあるとのことでした。なお、従来、長岡・原宿区による鳴り物は、還御の最後の行程である諸徳持から神社にあがる間でだけ演奏されるものといわれ神幸の途中に入ることはありませんでしたが、今回は三川浜でも演奏が許されました。
四本の篠竹に注連縄を張って用意された祭場に、神輿を海へ向けて奉安し、渡海祭が行われました。旭市長(大祭委員長)、市議会議長をはじめ、松澤熊野神社側からは左京、右京、神社役員、四天王、区長、三川地区からは実行委員会の議員、区役員が参列し、玉串奉奠を行いました。そして渡海祭の終了と合わせて、長岡区長の発声で四天王による四方祓(よもばらい)が行われました。なお、舟曳場と呼ばれる祭場の場所は、国道から浜に降りる都合や、消波ブロックの配置等により決められたもので、祭礼上の意味はないそうです。
次に神社責任役員の手で餅撒きが行われ、また銚子阪流会により、鳴り物の演奏と纏振りが披露されました。御浜降りを担う三川の浜区では、今回担ぎ手が足らず助っ人が集められ、鳴り物は銚子阪流会に依頼しました。 -
御旅所発輿祭
召立
県道から浜に入る神幸行列
三川浜へ下る神幸行列
長岡・原宿区の鳴り物
長岡・原宿区による神輿奉輿
渡海祭の祭壇
渡海祭
鈴祓い
四方祓
餅撒き
銚子阪流会の鳴り物と纏振 -
お浜下りの神輿は、高張提灯と波切旗が先導し、2本の波切旗の間を海に入っていきました。熊野神社側との事前の打ち合わせでは、今回は沖に出ず、波打ち際を進むだけの予定となっていたため、飾り金具を取り外さず、胴に晒も巻かず、化粧綱のまま海に入りましたが、浜の若衆たちは勢いづいて沖へ沖へと進んで行き、神輿が時に荒波に洗われたり、水しぶきをあびながら揉まれ、日の光に輝く様子に、観客は酔いしれました。神輿は沖を、熊野大神が出現したと伝えられる西方向に100メートルほど進み、祭場に引き返しました。
浜の担ぎ手は、白の褌または半股に晒の腹巻というのが伝統的な姿です。海の深いところへ行くと、神輿がふうっと軽くなり沖に流されそうになるので、そのときに腹に巻いた晒をとって担ぎ棒に巻き付けて引っ張ったと聞きますが、今回は白の鯉口シャツや白ズボン、あるいは祭半纏を着たままの方が多く見られました。また、御浜降りの間、銚子阪流会の鳴り物が途切れることなく演奏されました。大太鼓3,小太鼓3,篠笛8,鉦1の編成でした。
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お札・御朱印の頒布
渡海祭を終えた神職
お浜下り
銚子阪流会の鳴り物
神輿を収める
三川浦還御祭 -
かつてはお浜下りに続いて三川地区を渡御し、我留前(小林)家で神輿の胴に巻いた晒を取り、清水で洗い清めて飾り金具や力綱を元に戻す「更衣祭」が行われ、さらに大久保家まで戻って還御祭が行われました。我留前家で取った晒は、安産の守りとされて希望者に頒けられました。しかし今回は三川浜の祭場で、そのまま還御祭が行われ、その後、神輿は車載でユートピアセンターに運ばれ、水洗いされました。
神輿が沖合まで担がれ海に入ったことは、神社側としては予定と異なる形であり神輿も傷みましたが、「結果的に本来の形でできたのだから、大成功」と前向きな捉え方が大勢でした。 - 【還御】
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網戸農村協同館、江ヶ崎コミュニティセンター、琴田新町境(道路脇)、新町の石嶋家、諸徳持のJAちばみどりひかた支店駐車場の5ヶ所で駐輦祭が行われ、各地区役員等の参拝を受け、宮司から太玉串が授与されました。特に新町の石嶋家と加瀬家は、長く休憩場所を提供し、丁寧なおもてなしがあった家です。石嶋家で行われた祭典で、宮司から2家の当主へ、太玉串の授与が行われました。
諸徳持では、諸徳持お囃子保存会の下座と手踊りに出迎えられました。駐輦祭に続いて、長岡・原宿区による神輿担ぎが行われました。これまでは、諸徳持から松澤熊野神社まで行列を作り、神輿も原宿・長岡区に担がれて、鳴り物とともに還御していましたが、今回、諸徳持から鳥居までを車載したため、駐輦祭で担ぐようになりました。神輿を差した形で止めるアンバを披露したあと、囃子にあわせて揉み、次第に諸徳持の加勢を得てともに揉み、跳ね、最後に再度、アンバで締められました。また神輿はトラックに載せられ、諸徳持のお囃子に送られて出発しました。
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網戸駐輦祭
江ヶ崎琴田駐輦祭
琴田新町境駐輦祭
石嶋家加瀬家駐輦祭
諸徳持駐輦祭
長岡・原宿区の舁夫に諸徳持が加勢 -
大鳥居前で神幸行列を整え、参道を進みました。神輿は社殿前で揉まれ、その後、神幸世話人と浪切の旗に先導されて社殿を3周し、その後もしばらく境内で揉まれた末に、アンバで締められました。そして拝殿で待つ神社役員の手に渡され、本殿前に安置されました。
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鳥居前で整列し渡御
社殿を3周
境内で神輿奉輿
役員の手で社殿内へ - 【還御祭と直会】
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還御祭ではまずご神体が神輿から本殿へ移され(「入御」)、祭典が行われました。そして、拝殿では神社役員、供奉神社関係者、四天王、神輿師などで神職を囲む直会の席が設けられました。
宮司、奉賛会副会長の挨拶のあと乾杯が行われ、その後、四天王の鈴木敏通さんから神社の主だった方々へ御神矢が贈られました。社務所には参列者や松沢区民一同が座り、食事や飲み物をいただきました。
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還御祭
直会 - 【今回の番所の設営について】
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東庄地区では5地区合同による「東庄番所」が東庄ふれあいセンターに設けられ、殿様2名が小南、使者受2名が粟野、門番2名は青馬と東和田から各1名ずつ選ばれました。各地区で伝えられてきたセリフや歩き方などが若干異なるので、門番2名のすり合わせが必要でした。
海上地区では4地区の合意が得られず、見広区が単独で番所を設けました。殿様、使者受、門番は配されず、神輿の進行に伴うお札の授与は、見広区長が受けました。
三川番所を三川地区7区合同で設けたことは従来通りですが、これまで殿様を務めてきた我留前家と家老を務めていた大久保家が、ともに途絶したために、新たな番所の形が検討されました。大久保家については、大久保家の本家筋が熊野堆を買い取り今後管理していくことになったため、家老職も大久保本家の当主に引き継がれることになりました。殿様については、今回初めて希望者を募って決められました。また、三川下宿区の矢刺神社背後の「三川ふれあい公園」は、平成11年まで三川番所が設営された土地で、地元では引き続き番所の用地となることが期待されていました。また、長く熊野堆が神輿の宿泊場所にもなっていたことから、今回、番所と御旅所がいいおかユートピアセンターに移ったことを残念に感じた住民も少なくなかったようです。今回の御旅所には、直前まで熊野堆近くの下宿青年館が予定されていましたが、建物の構造上神輿を納めるのが難しいことがわかり、急遽いいおかユートピアセンター内に設けられることになったという事情もあり、7日の日没後には下宿区の屋台が矢刺神社の前に曳き出され、囃子の演奏がしばらく続けられていました。
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三川下宿の山車